「……ねえ。何がそんなに楽しいの?」
少年が一息つくのを見計らい、壁にもたれかかっていた少女はどこか疲れたような顔で声をかけた。
「え? 何が?」
振り向いて小首を傾げる少年は、少女の言うとおり、楽しげに口元をゆるめたままだ。
「太鼓とかシンバルとか。叩いてるだけじゃない。たかがそれだけのこと、どうしてそんなに楽しそうにできるの?」
「たかがって……そう言うけど、案外、難しいもんなんだぜー?」
不機嫌そうに問いかける少女に、少年は少しムッとしたような声で言い、次には幾分明るい声で続ける。
「基本的なパターンの、簡単な譜面ならいいけどね。どうしても出来ないときとか、いくらやっても上手くならないときは嫌になっちまう。でも、まあさ」
少女の表情がますます不機嫌そうになるのを上目遣いに見上げながら、少年は青緑色の瞳を本当に楽しそうに細めた。
「そういうの、練習して出来るようになったときが凄ぇ気持ちいいんだよね。だから、やめらんないの」
「……わかんない。ただ叩いてるだけじゃない。誰だってできるんじゃないの?」
「あ、言ったなー?!」
立ち上がり、それでも少女より随分と低い視線が、怒ったような声とは裏腹に楽しそうに見上げてくる。
「そこまで言うならさ、叩いてみなよ。ホラ」
「……嫌よ」
目の前に差し出されたドラムスティックを指先で押しのけ、少女はついと視線を逸らす。
「大丈夫だよ、簡単だからさ。ただ『叩くだけ』ならね」
先の少女の言葉への当てつけのように言って、少年はにんまりと笑う。少女が何か言い返そうと口を開くが、言葉は別の声にかき消されてしまう。
「あっれー、チルカじゃん? 何でここにいるわけ?」
ふたりが振り向くと、萌黄色の髪をした少年が柱の影から首を出しているのが見えた。
「チェリオ……あなたの方こそ。どうしてここに……」
「何でって。俺、ベース担当だから」
言って、チェリオは背負っていた黒いケースを掲げて見せた。
「カシアラさん、まだ来てないんだ」
「見ての通り、他の連中もまだだぜ」
「……っていうかさ、何でチルカがいるわけ?」
「お前……人の話、ひとっつも聞いてねえのな」
わけがわからない、といった様子で眉間にしわを寄せているチルカを尻目に、少年ふたりは彼女から離れていきながらワイワイ楽しそうに話している。
壁伝いに床に座り込み、チルカは軽くため息をついた。小首を傾げ、ふたりの少年を眺める。先ほどまで一心にドラムを叩いていた方の少年が、チェリオに楽譜らしき紙束を突きつけながら何やらわめいているが、何の話をしているのかサッパリわからない。
膝を抱え、もう一度ため息をつくと、遠くで犬の鳴くような声が聞こえた。
「おっ、ひとり来たみたいだね」
「ああ。いてもいなくても、どっちでもいいようなヤツがね」
声はあっという間に近くなる。何事かとチルカが声のする方向へ目を向けると、何か黒いものが宙を舞った。次の瞬間には、石床の上に浅黒い肌の少年が降り立つのが見えた。
ボサボサの黒茶色の髪にピンととがった長い耳、そして、ふさふさの長い尻尾が特徴的な少年だった。
「フラットぉ……」
獣の唸るような声。
「よう、クー。今日も大回転、決まったねぃ」
先に来てドラムを叩いていた少年――フラットは軽く手を掲げ、明るく言って見せるが、その笑顔はわずかに引きつっている。
四つん這いのままジリジリと近寄ってくるクーのその仕草は、まさに獲物を狙う獣。準備万端、完全な攻撃態勢なのだ。
「……じゃあ俺、そろそろ練習始めよっかな」
助けを求めるように伸ばしてきたフラットの指先をかわし、ピリピリした空気の中から逃げ出すようにチェリオはふたりの少年から離れていく。
「フラットぉおおおおお! お前っ、また俺のパート横取りしやがってー!」
「のわあっ!」
飛びかかってくるクーを避けきれず、押し倒されるフラット。それを気にしたふうもなく、テキパキと楽器やら譜面の準備をしていくチェリオ。突然のことに呆気に取られ、言葉もなく固まってしまっているチルカの横から、小さな笑い声が聞こえた。
現れたのは、薄手のショールを羽織った女性だ。
「喧嘩はおよしなさいな、ふたりとも」
「カシアラさん!」
呆れたような様子で声をかける女性に、クーが振り返る。
「フラットのヤツ、いっつも俺のパート横取りするんだ。今日だってさ、カシアラさんが歌うときは俺がドラムやるんだって決まってるのに!」
「誰が、いつ、そんなこと決めたんだよ、犬っ子」
すねたような顔で言い募るクーに馬鹿にしたような声で言って、フラットはクーの頭をはたき、両手で思いきり頬をつねった。
「んにゃろ、誰が犬っ子だっ」
「お前以外に誰がいるってんだよ、犬っ子! うりうり」
「むがーっ!」
言っても聞かないのだと、カシアラと呼ばれた女性は諦めの表情でため息をつく。
「んもーっ。クーさんもフラットさんも、ケンカばっかり。どうしてもっと仲良くできないんですの?」
カシアラを見上げたまま、またも固まっていたチルカを挟む形で、再び別の声が上がった。
「アレはアレで仲良しさんなの。ね、カシアラさんっ」
「ええ、そうですわね」
ふわふわの栗毛に、大きなエメラルドグリーンの瞳が愛らしい幼い少女と、猫のような耳と尻尾のアクセサリーをつけた、どこか不思議な少女だった。
言われたカシアラは、少女の言葉にうなずきつつも、口喧嘩から取っ組み合いの喧嘩に発展しつつあるクーとフラットを眺めながら、もう一度ため息をついた。
「とりあえず、あの喧嘩を止めないことには話になりませんわね」
浅黄色の長い髪をふわりとなびかせながら、カシアラは床の上を転げ回る少年ふたりの元へと歩み寄っていく。
その後姿を惚けたような表情で見送るチルカに、すぐそばにいた少女が声をかけた。
「あなたが、チルカさんですの?」
戸惑うチルカに、少女はにっこりと微笑む。
「チルカさんのために、みんな今日までずーっと、がんばってきたんですの。しっかり聞いていってほしいんですのー」
「私……の、ため?」
目を白黒させるチルカに、ふたりの少女は満面の笑顔を返す。
同時に、クーとフラットの情けない悲鳴が上がった。
「ふにゃん。喧嘩、終わったみたいなの」
見てみれば、クーは尻尾の先を、フラットは服の裾をわずかに焦がした状態でカシアラにぺこぺこ頭を下げているところだった。
「あーあ、馬鹿だなぁ。いい加減、学習すればいいのに」
呆れ声とともに、悪魔のような翼と尻尾を生やした少年が横に現れるが、それに反応する余裕がチルカには残されていなかった。
「ニシカーワさまのちからは絶大ですのー」
何度目かの硬直状態に見舞われるチルカの横で、少女らはきゃっきゃっと楽しそうに声を上げる。カシアラは変わらない笑顔で振り返り、彼女らに声をかける。
「さ、始めましょうか」
何が行われるのか、チルカには全く予想がついていなかった。
音楽仲間と練習をしている、是非それを聞きに来て欲しい。そう言って、なかば無理やりにフラットにここへ連れてこられたのだ。何かの演奏を聞かされる、わかっているのはそれだけだった。
ふたりの少女による前奏――フラットのドラムが入り、ピアノの音色に他の音色が重なる。
そうして、カシアラが歌い出した。
「あ……」
ぼんやりとしていたチルカの表情が、わずかに動く。
――凄い……綺麗な声……。
柔らかく、何もかもを包み込んでくれるような、優しい歌声。あたたかな、それでいてどこか寂しげにも聞こえる。冬空の冷たさを歌ったようなその歌の歌詞が、そう聞かせるのだろうか。
――いいな……私も、あんなふうに歌えたら……。
いつの間にか、チルカは身を乗り出すようにしてカシアラを見つめていた。
歌が盛り上がりに入る――
「……あー、もうっ!」
タンバリンを鳴らしていたクーが怒ったような声を上げ、演奏が中断された。
「フラット、このヘタクソ! 今すぐ代われよー! やっぱりカシアラさんが歌うときは俺じゃなきゃダメなんだから」
「あ、あのなぁ、お前……」
有無を言わさぬ勢いでフラットをドラムの前から押しのけようとするクーに、皆、軽く息をつく。また始まったよ、と仏頂面する翼の少年の横で、チェリオが笑いながら肩をすくめてみせた。
「今日だけは俺が叩くって、さっきお前も納得してただろ?」
「でも、カシアラさんが歌うんなら、やっぱりドラムは俺なんだ!」
「あー、もう……」
頑固に自分と代われと迫るクーに、フラットは頭を抱えた。
「とにかく……もう一度、最初からやり直しましょう。ね、クー?」
カシアラに諭されるように言われると、クーも渋々うなずき、再び演奏が始まる。
しかし――
「……ヘタクソ!」
何度やり直しても――
「……俺に代われ!」
途中でクーが強引に演奏を止めてしまうのだ。
しまいには――
「――だぁっ、もう。ヘタクソはどっちだ。ヘボは一生タンバリンだけ叩いてりゃいいんだよ! それが嫌ならカスタネットでもやっとけ、バカ犬!」
「何をーっ!」
フラットがキレて再び取っ組み合いの喧嘩になってしまった。
いつものことなのだろう。
困ったような顔でふたりを眺めるカシアラの横で、少女らふたりはきゃっきゃっと歓声を上げ、翼の少年とチェリオはそれぞれに自分の練習を続けている。
音楽の練習をしているというわりに、頻繁に泥だらけになって帰って来るフラットが、歳の離れた姉にこってりと怒られている場面をチルカはよく目撃していたのだが――あれはこういう経緯があったのか、そう思うと、チルカは笑いの衝動を抑えることができなかった。
――結局。
喧嘩はカシアラが頭に巻きつけている赤いヘビ――ニシカーワという名らしい――が、クーの尻尾とフラットの服を焼き焦がしたことで終了した。が、その日、彼らが一曲の全てを演奏しきることは最後までなかった。
申し訳なさそうな面持ちで頭を下げるカシアラに、チルカは彼女の歌声への素直な感想を述べ、自らも頭を下げた。
そして、日の傾き始めた帰り道。
「――ごめんよ、チルカ姉ちゃん」
薄藍の短いを髪をぽりぽりとかきながら言うフラットに、チルカが振り向く。
「せっかく来てくれたってのに。最後まで聞かせてやれなかったな」
「ううん、気にすることないよ。いいじゃない、楽しそうで」
「……ホントにそう思う?!」
「うん」
本当に嬉しそうに言ってくるフラットに、うなずくチルカも微笑み返す。
「良かったー。チルカ姉、何か怒ってるみたいだったからさ。面白くないんじゃないのかって、思った。ホント、良かったよ」
「ヤだぁ……私、そんなに変な顔してた?」
「へへへ……あ、そうだ。ほら、これっ」
思い出したように言って、フラットは鞄の中から数枚の紙束を取り出し、チルカに差し出した。思わず受け取ったチルカは、渡された紙が何かの楽譜であることを確認して怪訝な顔をする。
「今日、俺達がやってた曲なんだ、それ。良かったらさ、チルカ姉も歌ってみて」
「え……やだ、私、歌えない。無理だよ」
最後まで聞くことのできなかった歌の歌詞を、ゆっくりと目で追いながらチルカは小さくため息をついた。
「何、言ってんだよー。ちゃんと練習すれば歌えるって」
「……音痴だもん、私。それに……」
――嫌いなの。自分の声が。だから。歌いたくない。
言葉の先を心の中で呟くだけにとどめ、チルカは黙り込んだ。
視線は、歌詞の中ほどを彷徨う――長い冬の終わりが近づいている……そんな場面を歌った歌詞だった。
「……そっか。残念。チルカ姉の歌、聞きたかったのにな」
――嫌よ。私が歌うと、みんな笑うんだもん。
口に出しては言えず、自然と引き歪んでしまう口元を無意識に楽譜の端で隠しながら、チルカは軽く目を閉じた。
「ごめんね」
「へへ……いいって、いいって。でも、さ」
いつになく沈んだような顔をするフラットに、思わず謝罪の言葉をかけるが、見上げてくるその顔にはいつもの笑顔が浮かんでいた。
「俺は、好きだよ。チルカ姉の声」
「え……」
思わず足を止めるチルカの横を、フラットはそのままてくてくと歩いていく。
「カシアラさんの声も好きだけど……チルカ姉の方が好きだな、俺は。ちゃんと歌えばさ、絶対、イイって思うんだ」
「ヤだぁ……やめてよ」
「――へへ。やっぱ、ダメ?」
少し先を行ったところで振り返り、小首を傾げながら聞いてくるフラットに、チルカは何も答えない。
見透かされている。そんな気がしていた。
視線は、歌詞の終わりの部分を追う――春の訪れを知り、その喜びを歌った場面だった。
「じゃ、またね、チルカ姉」
「うん。じゃあね」
分かれ道。それぞれの家の方角へ向かい、手を振り、別れる。
床を転げまわってどろどろに汚れた上に、裾が焼け焦げた服をパタパタと叩きながら何やらぶつぶつと呟いているフラットの背を、しばらく眺める。
「あ……ねえ、フラット君」
意を決して声をかけるチルカに、振り返るフラットの顔は、先ほどよりも幾分沈んでいた。
「あのね――また、見に行っていいかな。練習」
沈んでいたフラットの顔が、見る間に満面の笑みに塗り替えられていく。
「もちろんだよ!」
「次のときは、ちゃんと最後まで聞かせてね?」
「んっ。あのバカ犬によーく言って聞かせるぜ!」
両の拳を胸の辺りで握り締め、うなずくフラットに、チルカは微笑み返した。
再び手を振り、別れる。
「シャープさんにも、よろしく言っておいてね」
勢い良く駆けて行く背中にそう声をかけると、妙にあいまいな返事が返ってくる。
走りながら振り返り、両手を力いっぱい振ってくるフラットの笑顔が微妙に引きつり、走る勢いも少し落ちているのを見取って、チルカはニッコリ笑ってもう一つ言葉をかける。
「頑張って」
そうして、背を向け、歩き出した。
手の中の楽譜を指先でそっとなぞりながら、小さく呟く。
「ちょっとだけ……」
――ちょっとだけ、好きになっても……いいんだよね?
渡された歌詞の、最初の部分を、記憶を頼りに口ずさんでみる。
――うん。大丈夫。
途中で歌のメロディがわからなくなる。
楽譜をそっと目で追ってみる。口元に浮かんだ笑みは、消えない。
振り返った道の先に、フラットの姿は既になかった。
「大丈夫」
口に出して、うなずいてみる。
きゅっと抱きしめた楽譜が、なぜか温かく感じられた。
背後の道の先へ向けて、チルカはぺこりと頭を下げる。
――きっと、好きになれる。大丈夫。
「……ありがと、フラット君」
――ありがとう。
顔を上げ、こくりと大きくうなずくと、チルカもまた走り出した。
――――(完)――――